敗戦時の思い出

戦時中私は母の実家のあった山口県徳山、父の従兄弟のいた広島市に疎開していた。
今から考えると危険なところばかり。

6月に海軍で横須賀に居た父が、「もうこの戦争は負けだ。どうせ死ぬなら家族一緒に死のう。」というので広島を引き上げ、横須賀で父と合流。
その後で広島に原爆が落とされた。

工学部で助手をしていた父は、自分は原子物理学はやっていないものの情報が入っていたようだ。

また、母方の祖父は化学者で徳山曹達にいたが、その前には理研で研究していたので、元同僚たちから、仁科博士の日本における原爆開発の情報も得ていたということだった。

どうも父も祖父も原爆による一発逆転を夢見ていたのではないかと思われる。

そして空襲によって原爆開発の設備が焼失して日本の原爆開発が頓挫、この時点で日本の敗北を確信していたそうだ。

当時工学部の学生・教員は兵役免除だったそうだが、祖国が負けると分かっていて、ただ傍観している訳にはいかないと、志願して入隊。
入隊して何をしていたかと言うと、廃物利用での魚雷の設計をしていたそうだ。

この辺の事情は実は母が書いた育児日記の記述によって知った。

父が入隊した頃、祖父は徳山曹達を辞めて父と同じような理由で満州の華北軽金属という軍需物資の会社に移り、敗戦の際に抑留され、5年後帰国したものの、すぐに亡くなってしまった。

父も戦後、戦争中のことについて話したがらなかったので、何がきっかけで6月になって「いよいよ、これまで」と思ったかは分からない。
原爆の標的が広島だったことは知らなかったようだ。

知っていれば、当時私たちが世話になっていた父の従兄弟に知らせたはずだから。
父の従兄弟はたまたま出張中で難を逃れたが、その奥さんは被爆。

私は当時栄養失調で目が見えなくなり、広島の病院に通院していた。
ある日、待合室でよその方にいただいたお結びと、その病院の入り口の幅の広い階段が広島の唯一の思い出。
余りにやせ細っていたので、目の治療より食べ物が必要なのでは?といって下さったお結びの美味しかったこと!

原爆ドームにある「原爆によって石の階段に焼きついた影」の階段が、その病院の階段ではないかと思っていたが、そうではなくて銀行の階段だそう。

もし、日本の方が原爆の開発が早ければ、日本が原爆の加害者になっていたかもしれないと思うと、ぞっとする。



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